生存報告など

2016.05.05 00:52|info
ご無沙汰しております。全然更新していませんでしたが、まだ活動してます。

一応、既刊本リストとかは更新していたんですけどね。Twitterをやっているとついブログの存在を忘れます。
ブログに書いてない活動としては、3月にテキレボ、つい先日文フリに出店しました。
初めて来て下さった人に「ブログに書いてありますー」とか言ってから全然更新していなかったことに気付いた次第です。

近況とか色々についてはまたちゃんと書くとして、今日はとりあえず取り急ぎお伝えすることだけ書いておきます。

一つ目、

comicoノベルに載せていた二作品がベストチャレンジに昇格しました。
昇格するとどうなるかというと、アプリで読めるようになります。更新ペースが不安定なのですが、チマチマやらせて頂いております。同人誌と内容が被っているのですが、短編集の方は書き下ろしも載せたいなと思っています。
リンクは以下の二つです

『壊れた私と、彼女の殺人』(長編)http://novel.comico.jp/challenge/7453/

『アオハルカルテ』(短編集)http://novel.comico.jp/challenge/7488/

二つ目、

即売会で、ポップというか品書きのようなものを机に置いているのですが、それがわりと評判が良くて「コレもらえませんか?」と言われることもあったので、いつでも見られるようブログにも載せておきます。フリーペーパーにしても良いのですが、印刷するほど何かが書いてあるわけじゃないしなぁと。内容は頒布物の紹介です。


『壊れた私と、彼女の殺人―Me, being broken and her murder case』
壊れカノ新装版表紙


それでも、私たちの日常は終わらない。
灰色の日常をもがき生きる少年少女へ送る
青春×ホラー×ミステリー

両親の死をきっかけに人の死についての感情を失ってしまった少女、中原美加子が遭遇する、残酷で救われない事件の物語。長編。好評につき新装版として復刊。ジャンプ小説新人賞最終選考候補作品。
¥600-


『さよならを教えて』
さよ教 表紙


見ない振りをしてきた人生に、倦怠感漂う日常に、
踏みにじってしまった過去に、別れを告げたくて、
人知れず交差する縁の中で彼女たちは彷徨う。


生き辛い少女たちの切実な青春オムニバス。ショートショート9編を収録。写真家、中根佑子先生による表紙や作中イメージ写真を収録。『文学フリマガイドブック2015秋』巻頭推薦作品。
¥300-


『Hello Wrld』
ハロワ 表紙



鬱屈した日常、振り払えない記憶、戻れない過去。
重く横たわる現実の中で、瞬きのような光を見つけられたとき、
少女たちはしがらみから抜け出すきっかけを手にする。
不確かなそれを胸に、彼女は歩む。
きっと次の日の世界に挨拶を言えるように。

生き辛い少女たちの切実な青春オムニバス2巻。漫画家、窓ハルカ先生による表紙イラスト。
¥300-



もっと色々と書きたいことはあるのですが、ビックリするくらい体調が悪いので、とりあえずご報告でした。



第21回文学フリマ東京ご案内

2015.11.21 13:14|info

即売会が目前になりました。今更ですが、当日のご案内をします。

サークルスペースはC-12です。
サークル名saya worksで出店しています。


今回の頒布物は、長編一冊、短編集二冊の、小説本三冊です。
短編集のいずれかを買って下さった方には、イラスト栞をプレゼント致します(多分先着20名前後)。柄は三種、ランダムです(その場でリクエストして下されば選んで頂いても結構です)。サークルイメージキャラ(名称未定ちゃん)をデザインした、稀崎冬乃さんに各短編に登場する人物を描いて頂きました。


頒布物について簡単にご案内。詳しくは既刊本リスト(http://secondhandbooks.blog.fc2.com/blog-category-3.html)に記載しています。
長編は『壊れた私と、彼女の殺人』。ジャンプ小説新人賞最終選考候補作です。こちらは残部が僅かになっています。
短編集(既刊)は、『さよならを教えて』。今回の文学フリマガイドブックに、巻頭一ページ掲載で紹介して頂いています。
短編集(新刊)は、『Hello World』。webマンガサイト「トーチ」での連載や、先日発売された初単行本『俗の金字塔』等で話題の漫画家、窓ハルカ様に表紙イラストを描いて頂きました。


今回の新刊ですが、ページ数は前回と同じものの、行間や文字数を商業誌仕様に合わせたので、文量はかなり増えています。なかなか良い出来になったと思うので、是非お手に取ってみて下さい。今回はご購入者全員向けにフリーペーパーも作ってみました。お気軽にお立ち寄り下さい!

文学フリマ東京(11/23)参加

2015.10.21 22:15|info
お久しぶりです。

前回の更新がいつだったのかも覚えてません。
とりあえず、次回の参加について色々決まったり分かったりしたのでご報告します。
第二十一回文学フリマ東京(11/23)に参加します!
もう三回目?くらいなことにビックリしますね。
スペースはC-12です。

一応、新刊の予定あります!間に合うかどうか、かなーりグレーな感じですが、頑張ります。
また短編集で、文量、値段も前回と同じくらいかなと思います(約60頁、300円)。
相当コストを下げたんですが、今までが赤字も赤字で、今後の活動のこととか全然考えていなかったので、バランスの良い価格設定を考えないとなーと思っています。でもあんまり高くして読んでもらえなかったら意味が無いので……。
表紙がかなり豪華なことになると思います。

あと、まだちゃんと決まってないんですが、購入特典みたいなモノを作りたいです。二冊以上購入で栞とか。多分、栞になると思います。栞を作りたいので。

それから、もう言っても良いっぽい(というかTwitterでは結構前から言ってる)ので宣伝します。
今回の文学フリマガイドブックの紹介作品に、既刊、『さよならを教えて』を推薦して頂きました!ありがてぇー!
しかも一ページまるっと使って頂いています!更に!巻頭です!やったー!
編集委員の方々がめっちゃくちゃ良いレビューを書いて下さっています。凄くしっかり読んで下さったようで、ホント嬉しいです。
文学フリマの公式サイトからも紹介作品の一覧を見ることが出来ます。
ガイドブックはかなりのボリュームがあって200円とお買い得なので、是非手に取って、saya worksの本を買って下さい!
文学フリマガイドブックの内容紹介(http://bunfree.net/?%CA%B8%B3%D8%A5%D5%A5%EA%A5%DE%A5%AC%A5%A4%A5%C9%A5%D6%A5%C3%A5%AF

ちなみに、ブログで言うのをうっかり忘れていたのですが、作者の名前が泉水沙耶改め、いずみさや、になりました!検索で探しにくいからです!まぁ、saya works(同名のファッションブランドがあるなんて知らなかった……)にしろ、いずみさやにしろ、検索し易くはないんですが、少しでも見つけてもらえるようにしようと思いまして。

では、新刊の画像なんかが出来たらまたお知らせ致します。
現時点では既刊と新刊併せて三冊の小説本を持って行く予定です。
既刊の長編については在庫が残り数冊になっています。
宜しくお願い致します。

意味化と論理性の煉獄

2015.07.01 17:26|雑記
文系の論文を書こうとするとかなりの頻度で触れる言葉に、「言説」というのがある。
一般的には意見や説明を述べることを言うらしいけど、人文学的にはある物事を巡る議論とかその語が用いられる文脈のことを指す。後者の意味を強調する為に日本語でもディスクールとか表現する場合もある。いずれにせよ、日常では使わない言葉だと思う(少なくとも私は大学に入るまで使った覚えがない)。
今回はこの言説について日々思っていることをについてちょっと書く。
人文研究では言説を分析するのが大事な作業、というか、言説分析をしなくていい人文研究なんか無いんじゃないかと思うくらい、何をするにもついて回ることだ。例えば、ある伝統的な概念を批判しようと思ったら、まずその概念についてどんな言説が展開されていたのかを知る必要がある。何でもそうだけど、知らないものについては語れない。で、それをしっかりやると何となくちゃんとやってるっぽく見える。既存の言説をしっかり把握するには文献を読まなくちゃいけないし、外国語学科の人ならそれに応じて語学も出来なくちゃいけない。つまり、言説分析が出来てる人=知識と語学力がある人と言える。事実はともあれ、少なくとも表面上は。
それは立派なことだし、むしろ学生の仕事の大半はこれなんじゃないかとも思う。文系の学生に対する「勉強しろ」はほとんど「本読んで語学やれ」の意味だから。
私は本当に不勉強でだらしない学生なので、読書量も語学力も全然足りていない。勉強は嫌いじゃないと思っていたのに、それは「自由にやる勉強」が好きなのであって、「必要だからやる勉強」はむしろ嫌いだということに二十代も半ばになってやっと気付いたような奴だから、いよいよという場面にならないと本当に怠ける。そんな自分を一番高い棚の一番奥へ上げて言うんだけど、日々学生生活を送っていると、言説分析に夢中になってる人マジでクソだなと思う。
さっき言ったように言説分析は凄く重要な作業なんだけど、それだけに終始するならそれはただの知識の書き写しとデータの収集作業でしかないのであって、詰まるところ、誰かが言ったことをなぞる(場合によってはそれを恣意的な型に押し込める)だけのことに過ぎない。わざわざ論文なり何なりの形で自分の言葉を他人に見える形に加工するんだから、そんな作業量だけが物を言うような成果物について聞かされても面白くも何ともないし、それは過去の「偉い人」たちがもっと上手い方法でやってることだ。
ところが、学問の世界では(というか学校では)、この言説について語りまくる行為がかなり幅を利かせているように思う。
明けても暮れても言説分析みたいな人も結構居る。誰それが語ったこの概念についてはこんな人がこんなこと言ってます、みたいな。
だから何だよ、マジで。
それを知ることの意味も、その概念を批判したり再解釈する意味も無く、ただただ言説を厳密化してゆく行為。別に全く無意味だとは言わないけど、それだけをやられても反応に困る。でもそういうやり方は手堅いし評価もし易いので、推奨する人も多い。
ちょっと話変わるけど、私は少し昔の映画や洋楽の批評や帯の雰囲気が好きだ。でかい文字で「今世紀最大の!」とか「~のマスターピース!」とか書いてある感じ。何を基準と根拠にして言ってんだってくらい論理性のカケラも無いようなフレーズ。それが批評として優れてるかどうかはさておき(帯とかならまぁいいんだろうど)、もうエモ全開なのがたまらない。「あーこれ好きなんだろうなー」とか「これ読ませたいんだろうなー」とか、逆で言えば「よっぽど気に入らなかったんだろうなー」とかが伝わって面白い。一歩間違えば、というかもうほぼ印象批評なんだけど、何がしたくて書いたのかはよく分かるし、中身を読めばちゃんと知識や論理的な手順に則ってしっかり議論を展開しているものもある。
学術論文がそんなことになっても困るだろうけど、それにしたってこういうエモさが蔑ろにされ過ぎている気運があるように思えてならない。博士論文ならともかく(あれはもはやお仕事だと聞くので)、卒論とか修論はエモくていいんじゃないか、むしろ、学術的な妥当性で言えば職業研究者の論文にはどうしたって敵わない部分があるんだから、エモが無かったら何が残るのか。エモが溢れちゃって論理の枠組みが決壊してても困るけど、何のエモも感じられないような研究ならやめちまえって色んな人の話を聞きながらよく思う。

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アカデミズムの墓場には文献マシンとなったアカデミックゾンビが彷徨っている

私には学術の世界に骨を埋めるつもりもその適性も無いので、それが良しとされる世界であり続けるならそれをあえて変えたいとはあまり思わない(変わった方が気分は良いけど)。それでも不満とかイライラは溜まるのでこうして何の論理的妥当性も追及されないような場所で好き放題書き散らす。
内輪の打ち上げ的な場で飲んでいたとき、先輩後輩交えてそれぞれの研究についてウダウダ喋ったことがある(院生が集まって飲むと会話がマジで気持ち悪くなる)。それこそエモいことを喋りまくったし、建設的な批判も沢山もらえて良かったんだけど、あらゆるものを意味化することが常識的な行為のように思えて、変な興奮と共に回り過ぎたちょっと頭がオーバーヒート気味になった。その日家に帰って、テレビを点けたら『長門有希ちゃんの消失』をやっていて、皆で旅行に行って最後は星を眺めならお喋りをするという超和む話だった。その中で長門が星に手を伸ばして、「なんだか届きそうで……」みたいなことを言う場面があったんだけど、その「夜空を眺めていたら星に届きそうな気がして手を伸ばしてみた」っていうナイーブさ全開な感性に打ちのめされた。
元来、私はそういう話が大好きだ。空想も大好き。
直前までビール飲みながら、意味化と論理性の煉獄みたいな会話の中に居たこととのギャップに発狂しそうになった。
私も友達と星見たい!星に手が届きそうだよねとか言いたい(「星に手が届く」の身体的、隠喩的な意味なんてどうでも良い)!
っていうエモさにやられる時期が周期的に来ますという話でした。

悪口と論理性

2015.05.28 02:08|雑記
私は元来かなり口が悪い方で、もちろん然るべき場で慎むことは出来るけれど、自然に喋っていると付き合いの浅い人にはびっくりされることがある。
別に四方八方に罵詈雑言をまき散らしたいわけではなく(そういう時期もあったけど)、ただ日々感じる不満とか違和感とかを誤謬を最小限に抑えて第三者に伝わるように表現を工夫していると、どうしても批判的な口調になってしまうし、そこに自分がどれくらいの熱量でその考えを持っているかを加えると辛辣さや冷淡さが強烈に滲んでしまう。
例えば、「クソ」という言葉を使うときには二種類ある。
一つは本当に感覚的なレベルで直情として「クソだな」と思ったとき。これはもう条件反射だから仕方ないと思う(発言するかどうかは理性で判断するけど)。もう一つは本気の嫌悪を表現したくて「それ本当に嫌い」とかではなく、あえて「クソ」と表現するとき。これは別にこんな汚い言葉じゃなくてもいいんだけど、相手に嫌度合いを伝える為にわざとインパクトのある言葉を使う。しかもその前後をかなりロジカルに説明する。「これってこの場合においてこの立場の人間にはこう受容されるじゃないですか。この理由からそれってホントにクソですよね」みたいな。
後者に関してはかなり多くの場面で何の用も為さない論法なんじゃないかってことはこの数年でやっと気付いた。
考えや思考の順序だけを数式のように正確に伝えたいなら感情が入ってはいけないし、逆に気持ちを分かって欲しいならロジカルになり過ぎるのは良くない。
というか、この論法は論理的に破綻してるわけじゃないんだろうけど、それ故に相手の反論を許さないところがある。
批判的に言えば、事実の列挙としても感情論としても中途半端で、議論の意義とかを全く無視して自分が言いたいことを表現する効率だけを優先して喋ってるだけ。だから反論の仕様が無いし、相手をもの凄く不愉快にする。と書きながら、ポジティブな意見の場合だったらどうなるんだろうと思ったけど、まぁいいや。
とにかく、のべつくまなく敵を作りまくる。
相手をとにかく痛めつけたくて、グウの音も出せないくらい全否定したいときは使えるんだろうけど、相手の神経を逆撫でしてまでそんなことしたい場面ってそんなに無い。しかもこれは基本的に相手より自分の知識量とか喋り方のテクニックが勝ってるときにしか使えない。
だから無駄に敵対感情をまき散らすのは止めよう!って思って割と何でも穏やかに喋るようになったんだけど(当社比)、大学院に通っているうちこの考えも更に揺らいできた。
多分、大学という場自体(学校組織とか研究機関)がどこもそうなんだろうけど、まぁ本当に事実論と感情論をごちゃ混ぜにして喋る人が多い。それも議論の場で。「何でその事実を伝える為にそんな感情寄った批判的な表現をするんですか?」って具合に。ここで言う表現っていうのは単に言葉選びのことだけじゃなく、発言行為としてってこと。細かい例を挙げると、一回鼻で笑ってから発言するとか、そういうの。
自分がイライラしてるからそれを発散させたいのか、自分が軽んじられてきたトラウマでもあって報復行為の一環でそうするのか、そういう態度が他人に舐められない為のテクニックだと思っているのか、ただ失礼な行為だと知らないだけなのか、それは分からない。とにかく、どういう腹づもりでそうしているのであれ、その論法を言葉にして説明すると冒頭で言ったような、かつて私が多様していたやり方にかなり似ると思う。自分が他人に(そうだという自覚無しに)そういう話し方をしていたのだと思うと、吐き気がする(これは直情としての言葉)。
私は議論の場でそんな喋り方は絶対にしないし、建設的じゃないことは言わない(知識とか技量の不足で論点を間違えるときはあるけど)。だから正確には例の論法が攻撃手段以外には役に立たない、ただ人を不快にさせる為だけのものだって考えは揺らいでないんだけど、日々そういう「議論」の場に晒される中で、「世の中の議論ってこういうものなのか?」って気になることがある。こうやって整理して文章にすると「いやいや、やっぱりおかしいよな」って思うんだけど、実際は学術とか仕事って意義や効率だけで成り立っていないし、「いかに相手より優位に立っているように見せるか」を競う場面もある。というか、そういう場面の方が多いと思う(絶対におかしいけど)。その上で、有効な手段はガンガン行使していかなきゃいけないんじゃないかみたいな、そういうところで揺れる。
今は狭い世界の内輪でしか生きてないからまだいいんだけど、この先上下左右が全く見渡せない世界で生きていくときに、どれくらい自分が思う価値と現実的な(些末な)価値観とのギャップを埋めて生きていけるんだろうとか思う。
この前深夜に歌のオーディション番組観てたときもそれを感じた。まぁ歌は学術研究や企画書と違って論理的に分析出来ない部分が大きいだろうから、どうしても論理と感情の境界が曖昧になりがちだと思うけど、それにしたって審査員が参加者に対して凄く私的なコンプレックスをぶつけているように見えて嫌だった。もちろん、本当に下手だったり自分に酔ってておかしな態度だったりする参加者は居たし、感情をぶつけるならぶつけるでいいんだけど、審査員という立場を利用して、あたかもその私的な感情が客観的な妥当性を持っているかのように言う感じ。あれは私が日常目にする人たちにかなり似ている。で、これは私見だからそれこそ何の客観性もなく私個人が感じたことなんだけど、そんな小汚い外見の人間が他人のセンスをどうこう言うのかとも思った。
こういうことを考えていると、いよいよ他人との会話で論理性と感情をどのくらいのバランスで表現したらいいんだろう(場合によるだろうけど)という思いで途方にくれる。私のネット上でのキャラが定まらない(もしかしたらリアルでもそう思われてるかもしれない)のはそのせいだ。
今はあんまり他人を気にせずに文章の流れだけを意識して書いてるけど、こういうのはTwitter向きじゃないと思うし、小説にもそのままの形では使えない(論文に使えないのは言うまでもない)から、ブログに書いてみた。
そもそもこのブログはどういう人がどれくらい読んでるんだろう? 記事を更新してないわりにはアクセス数が微妙に増えているので、少しは人目に触れてるんだろうな。
Twitterからの人が多いのか、文フリからの人が多いのか。サークル名もペンネームも目立たないから(泉水沙耶って名前は結構検索にしくいって最近気付いた)、ネットサーフィンで辿り着く人はそんなにいない気がする。
最近は記事にすることが全然浮かばなかったし、今後はこういうダラダラした雑記もここに書こうかなと思います。
なんか批判的な内容が多くなりそうだったから別にブログ作ろうかなと思ったけど、私のキャラが定まってないだろうからもういいやってなった。
キャラ作ってるというより不特定多数の人の目に触れることを意識してただけなんだけど。
そんなこんなで更新頻度増やせるといいな~。
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プロフィール

いずみさや

Author:いずみさや
東京在住
漫画原作・小説等を制作
お問い合わせはlied.von.sayaあっとgmail.comまで
twitter:@saya_works
Author画像は自画像ではなくサークルのイメージキャラクターです

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