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意味化と論理性の煉獄

2015.07.01 17:26|雑記
文系の論文を書こうとするとかなりの頻度で触れる言葉に、「言説」というのがある。
一般的には意見や説明を述べることを言うらしいけど、人文学的にはある物事を巡る議論とかその語が用いられる文脈のことを指す。後者の意味を強調する為に日本語でもディスクールとか表現する場合もある。いずれにせよ、日常では使わない言葉だと思う(少なくとも私は大学に入るまで使った覚えがない)。
今回はこの言説について日々思っていることをについてちょっと書く。
人文研究では言説を分析するのが大事な作業、というか、言説分析をしなくていい人文研究なんか無いんじゃないかと思うくらい、何をするにもついて回ることだ。例えば、ある伝統的な概念を批判しようと思ったら、まずその概念についてどんな言説が展開されていたのかを知る必要がある。何でもそうだけど、知らないものについては語れない。で、それをしっかりやると何となくちゃんとやってるっぽく見える。既存の言説をしっかり把握するには文献を読まなくちゃいけないし、外国語学科の人ならそれに応じて語学も出来なくちゃいけない。つまり、言説分析が出来てる人=知識と語学力がある人と言える。事実はともあれ、少なくとも表面上は。
それは立派なことだし、むしろ学生の仕事の大半はこれなんじゃないかとも思う。文系の学生に対する「勉強しろ」はほとんど「本読んで語学やれ」の意味だから。
私は本当に不勉強でだらしない学生なので、読書量も語学力も全然足りていない。勉強は嫌いじゃないと思っていたのに、それは「自由にやる勉強」が好きなのであって、「必要だからやる勉強」はむしろ嫌いだということに二十代も半ばになってやっと気付いたような奴だから、いよいよという場面にならないと本当に怠ける。そんな自分を一番高い棚の一番奥へ上げて言うんだけど、日々学生生活を送っていると、言説分析に夢中になってる人マジでクソだなと思う。
さっき言ったように言説分析は凄く重要な作業なんだけど、それだけに終始するならそれはただの知識の書き写しとデータの収集作業でしかないのであって、詰まるところ、誰かが言ったことをなぞる(場合によってはそれを恣意的な型に押し込める)だけのことに過ぎない。わざわざ論文なり何なりの形で自分の言葉を他人に見える形に加工するんだから、そんな作業量だけが物を言うような成果物について聞かされても面白くも何ともないし、それは過去の「偉い人」たちがもっと上手い方法でやってることだ。
ところが、学問の世界では(というか学校では)、この言説について語りまくる行為がかなり幅を利かせているように思う。
明けても暮れても言説分析みたいな人も結構居る。誰それが語ったこの概念についてはこんな人がこんなこと言ってます、みたいな。
だから何だよ、マジで。
それを知ることの意味も、その概念を批判したり再解釈する意味も無く、ただただ言説を厳密化してゆく行為。別に全く無意味だとは言わないけど、それだけをやられても反応に困る。でもそういうやり方は手堅いし評価もし易いので、推奨する人も多い。
ちょっと話変わるけど、私は少し昔の映画や洋楽の批評や帯の雰囲気が好きだ。でかい文字で「今世紀最大の!」とか「~のマスターピース!」とか書いてある感じ。何を基準と根拠にして言ってんだってくらい論理性のカケラも無いようなフレーズ。それが批評として優れてるかどうかはさておき(帯とかならまぁいいんだろうど)、もうエモ全開なのがたまらない。「あーこれ好きなんだろうなー」とか「これ読ませたいんだろうなー」とか、逆で言えば「よっぽど気に入らなかったんだろうなー」とかが伝わって面白い。一歩間違えば、というかもうほぼ印象批評なんだけど、何がしたくて書いたのかはよく分かるし、中身を読めばちゃんと知識や論理的な手順に則ってしっかり議論を展開しているものもある。
学術論文がそんなことになっても困るだろうけど、それにしたってこういうエモさが蔑ろにされ過ぎている気運があるように思えてならない。博士論文ならともかく(あれはもはやお仕事だと聞くので)、卒論とか修論はエモくていいんじゃないか、むしろ、学術的な妥当性で言えば職業研究者の論文にはどうしたって敵わない部分があるんだから、エモが無かったら何が残るのか。エモが溢れちゃって論理の枠組みが決壊してても困るけど、何のエモも感じられないような研究ならやめちまえって色んな人の話を聞きながらよく思う。

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アカデミズムの墓場には文献マシンとなったアカデミックゾンビが彷徨っている

私には学術の世界に骨を埋めるつもりもその適性も無いので、それが良しとされる世界であり続けるならそれをあえて変えたいとはあまり思わない(変わった方が気分は良いけど)。それでも不満とかイライラは溜まるのでこうして何の論理的妥当性も追及されないような場所で好き放題書き散らす。
内輪の打ち上げ的な場で飲んでいたとき、先輩後輩交えてそれぞれの研究についてウダウダ喋ったことがある(院生が集まって飲むと会話がマジで気持ち悪くなる)。それこそエモいことを喋りまくったし、建設的な批判も沢山もらえて良かったんだけど、あらゆるものを意味化することが常識的な行為のように思えて、変な興奮と共に回り過ぎたちょっと頭がオーバーヒート気味になった。その日家に帰って、テレビを点けたら『長門有希ちゃんの消失』をやっていて、皆で旅行に行って最後は星を眺めならお喋りをするという超和む話だった。その中で長門が星に手を伸ばして、「なんだか届きそうで……」みたいなことを言う場面があったんだけど、その「夜空を眺めていたら星に届きそうな気がして手を伸ばしてみた」っていうナイーブさ全開な感性に打ちのめされた。
元来、私はそういう話が大好きだ。空想も大好き。
直前までビール飲みながら、意味化と論理性の煉獄みたいな会話の中に居たこととのギャップに発狂しそうになった。
私も友達と星見たい!星に手が届きそうだよねとか言いたい(「星に手が届く」の身体的、隠喩的な意味なんてどうでも良い)!
っていうエモさにやられる時期が周期的に来ますという話でした。
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いずみさや

Author:いずみさや
東京在住
漫画原作・小説等を制作
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