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【第二回】serial experiments lain論考【テーマ編】

2018.06.15 00:46|連載記事

前回に引き続き、serial experiments lainの評論の第二回目です。
結構長いです。一回1500字前後って言ったのに倍くらいあります。
テーマ、フォーム、メタの視点からそれぞれ書いて、最後にまとめるということで第五回で完結と思ってはいます。
が、クラブサイベリアの当日である7月7日までに終わるのか?
別に当日までに終わってなきゃいけない制約はないけど、それをきっかけに書きはじめたわけで、なんとなく完結していたい。

それはそれとして、これ他人が読んで面白いのかどうか自信があまりないです。
自分でもちゃんとした内容になってるか判断つかなくなってきたし。
ホントなら何日か寝かせたり、推敲したりして内容を精査すべきなんでしょうけど、前回書いたように、書き終えてから整えて直して、みたいなことでなく、リアルタイムな感じで書き綴っていきたいという気持ちもありつつ。

やってみたかったというのが正直なところなので、あまり考え過ぎずにとにかく最後までやってみたいなという感じです。
まともなものになったかどうかは、全部やってみてから考えるということで。
それでは、以下本文です。



【第二回 serial experiments lainに見る複合性―serial experiments lainに関する一連の実験的批評 テーマ編】


本論考の導入である第一回において、まずはテーマ、フォーム、メタという三つの視点から個々に評論を構築すると述べたが、テーマとフォームは相互に影響し合うものであり、一つについて語ると他方に越境する箇所がある。それを踏まえた上で、今回はserial experiments lainにおけるテーマ批評を構築すべく、この作品の物語内容を読み解いてゆく。

この物語の主人公、岩倉玲音は内向的な少女である。中学生である彼女は、年齢相応よりやや幼く見える。実際、同級生からは子供っぽいと称され、ペンギンのような独特のおぼつかない足取りで階段を降りる様子は無防備で頼りない。
また、人には聞こえない音が聞こえたり、見えないものが見えたりするなど、空想癖があるようだ(客観的にはそう見えるだろう)。また、家庭内では露骨な不和は見えないまでも、コミュニケーションはどこかぎこちなく、玲音とは対照的な風貌をした姉は、妹に対して冷ややかですらある。こうした日常の描写から、玲音は、いわゆるアウトサイダー的な「弱い」存在であることが察せられる。

物語は四方田千砂という少女の自殺と、死んだはずの彼女からメールが届くという学園ホラー的事件から始まり、玲音の身の回りにも不可解な出来事が起こるようになる。冒頭の展開からは、克服すべき要素を抱えた主人公が、謎の中核に迫ってゆくとともに成長的な覚醒を促す事態に直面するという、ミステリー要素を含んだ成長譚を予感する。
こうした物語では、多くの場合、主人公は共感すべき出来事の体験者として描かれる。そこでは、読み手(本来は視聴者と記すべきだが、文芸批評的な手法を採用する都合上、作品の受け手は「読み手」と記す)は主人公と同じように戸惑い、主人公の目線で様々な展開に直面するが、この作品においてはそれが唐突に裏切られる。

続く展開で、玲音には本人も自覚しない他の人格が存在するらしいことが分かる。これに際して、読み手は玲音や他の登場人物同様、謎に対する疑問を抱きながら次の展開を待つのだが、第3話「layer:03 Psyche」において玲音の様子に変化が起こる。
それはまさに人が変わったかのようであり、同エピソードの終わりの場面では、玲音は姉の美香に対してそれまでの人物描写からかけ離れた満面の笑顔で「お帰り、お姉ちゃん」と口にする。その様相は明らかに異様であり、それまで共感すべき体験者であった玲音は、読み手を突き放す。

この後、玲音には更に複数の人格があるらしいことが分かる。これについては、小中千昭氏の脚本やファンの中では便宜上「玲音」、「レイン」、「れいん」、「lain」というように同音異表記で区別される。この中でいわゆる「主人格」を厳密に指名することは難しい(素直に考えれば主人格は玲音となるのだろうが、他の人格と比べて本物と偽物といった区別は無いし、どこまでがどの人格なのかも明確に示されているわけではない)。
複数の人格が予告無しに入れ替わり、玲音は、共感すべき物語の体験者としての機能を果たさなくなってゆく。それと交代するように、玲音の同級生である、ありすが読み手と近い目線で登場するようになる。

一般的な成長譚は、主人公の主観によって語られ、動作主体としての主人公と、その相対で起こる事象の相互作用によって物語が展開してゆく。こうした物語では、主人公の心理描写が作品の主要素となる。例えば、教養小説がそれに該当する。
しかし、謎に直面する弱い主人公であったはずの玲音は、心情を明かすどころか、次々に読み手を霧中に迷わせるような謎をまとい、分裂してゆく。作中のキーワードに「偏在している」という表現があるが、多重に分裂した玲音は、まさに世界に遍在する素粒子のごとく、断片的な場面に顕在化したかと思えば異なる側面を見せて、統合的な一人の人物像を作らせない。

物語が展開し、世界観や様々な謎めいたキーワードの意味が明らかになってゆくにつれて、本筋となる出来事が見えてくる。仮想空間であるワイアードとオフラインの現実であるリアルワールドの境界を取り除き、昇華された(新しいプロトコルが実装された)世界を実現する目論見である。
この設定を理解する際に、玲音は物語の主人公というより、むしろ作品の世界観を説明するナレーターのような役割を担っていたと読むことが出来る。その説明の受け手は、ありすである(実際、物語の終盤で玲音はありすに対して一連の出来事を解説する)。

ここまでの考察を経て、玲音というキャラクターが持つ役割から、この物語が持つ二つの特徴的な要素を見出せる。

一つは、断片化された少女の人格を比喩として用いて語られる、ユートピア文学的要素である(ここでいう「ユートピア」は単に「形而上の場所」を指す)。玲音はキャラクターの形をとった物語世界の設計図という役割を持っているという考えだ。この視点に基づいて解釈するならば、この物語は、「構造と存在の関係性」についてのモデルケースであるといえよう。
「構造」とは、玲音という比喩的キャラクターを用いて説明された世界のことであり、「存在」とは主人公としての玲音自身やありすとった個なる人格のことである。

ワイアードやリアルワールドといった既存の世界、また新たなプロトコルが実装された新世界といった「構造」が、前者は固定されたもの、後者は前者からの脱構築により生み出されたものとして描かれているが、動作主体の無い構造は静止状態であり、いかなる意味も持たない。構造の機能が見える形でアクティブになるのは、構造の中におかれた個(玲音やありす)との相対で起こる事象においてである。つまり、比喩的キャラクターとしての玲音によって説明された構造は、動作主題たる個としての玲音やありすによって意味を為しているのだ。

既存の世界と新世界の関係は、モダニズムと、ポストモダニズムのそれと似ている。つまり、技術的な飽和を迎えた世界と、その内省的な脱構築により生まれた新世界の関係である。とすれば、我々が生きる現在においてポストモダニズムの更に後の時代に対する解釈が問われているのと同様に、serial experiments lainの世界においても、いずれ新世界の更に次の世界が問われることが想像出来る。

新世界においても次なる玲音が現れるかという問いをどう考えるかは、もう一つの要素と関わる。岩倉玲音という少女に起こる人格の断片化と止揚の過程を描く、青春小説的要素である。玲音が人格形成の過程を経験する主体として、挫折と再構築を経験する役割を持っているという考えだ。この視点に基づいて解釈するならば、この物語は「少女が能動的な自意識を獲得する過程」であるといえる。

本編の論考において、玲音が成長譚の主人公として機能しなくなってゆくと述べたが、統合化されない断片として複数の人格が分裂してゆくことを、物語冒頭に登場した弱い主人公である玲音の、人格形成における破壊と再構築の比喩であると捉えるならば、既存の世界の終わりと新世界の始まりは、受動的な対応者であった岩倉玲音が、役目を背負う能動的な自意識を獲得するまでの過程であったと言える。

玲音はワイアードとリアルワールドの境界の無い世界を実現する鍵となる任務があったということが判明するが、それを実践した後の世界でも一人の人格としての玲音を保っている。自身が新しいプロトコルを実行する為のソフトウェアであったという事実は、玲音にとって受け入れがたいものであったが、ありすや、自身の別人格(lain)との会話を経て、彼女はその役割を全うする。

任務の達成に際しては、もはや個としての玲音の人格は必要無いはずである。しかし、新しい世界が始まり、人々が玲音の記憶を失ってなお、玲音としての人格や記憶、ありすとの個人的な関係を(一方的に)保持している。つまり、玲音が自身の役割とは別に、能動的な自意識を獲得したと言える。この選択を端的に示すように、最終エピソードのタイトルは「layer:13 EGO」となっている。
この解釈に従うならば、前述した「新世界において次なる玲音が現れるか」という問いは、いささか的外れなものとなる。なぜなら、この作品を岩倉玲音という少女個人の人格形成の物語と考えるならば、岩倉玲音以外の物語など存在しないからである。

こうした、物語を私的な問題に収斂させる手法は、「キミとボクの物語」に終始するいわゆる「セカイ系」に見られるものであるが、この作品をセカイ系と呼ぶのは適切とは言えない。というのは、作品のテーマを探る手掛かりとして先にあげた二つの要素は、二者択一ではなく、同時並行的に成立するものであるからである。
この物語は、岩倉玲音の人格形成譚という形で私有されたものであると同時に、全ての登場人物を客体化する主人公不在の論説的なナレーションであるとも言える。後者には、セカイ系の絶対的な中心である「ボク」が存在しない為、この作品はその要件に合致しない。

さて、考察の結果として、玲音というキャラクターの役割から、この作品のテーマを探る手掛かりとして、構造と存在の関係性のモデルケースと、能動的な自意識を獲得する過程という、二つの要素を仮定した。この二つは相反するものではなく、むしろ両立を認めることによってこの作品をより深く読み込むことが出来るのだ。

本論考のタイトルに「複合性」と掲げたように、諸要素の複合性こそがこの作品の特異性であると考える。これについては、続くフォーム批評、メタ批評を終えた後で、それぞれの結果を比較検討し、serial experiments lainの評論を構築する際に言及する。



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【第一回】serial experiments lain論考【導入編】

2018.06.11 00:47|連載記事
今年、2018年はTVアニメserial experiments lainの放映20周年です。
これに際して、serial experiments lain 20th anniversary eventとして、クラブサイベリアというファン主催のイベントが開催されます。
もうlainファンの人なら大体知ってるかも。もし知らなくて、万一今知った人がいたら是非検索してみて下さい。

今、Twitterでlain20thのハッシュタグを使って本編の同時視聴会が行われています。
しかも、脚本の小中千昭先生が解説や裏話を書いたトンデモ情報量のブログを日々更新して下さっています。
脳汁出ますよね。

そんな中で、色々書きたい欲がウズウズしてこの事件を機にガッツリめな評論を書いてみよう!と思い、連載形式でココに載せていくことにしました。多分、馬鹿長くなります。

エモいレビューというより、あえて「堅い」評論を書いてみたいと思っています。
lainファンの方に読んでもらいたいのが一番ですが、やりたい放題な評論を書くという意味で評論研究をしている人にも面白がってもらえればなと。研究室を出て自由の身になったから!
不定期更新になると思いますが、lain20周年の賑やかしの一つになれば幸いです。
今回は導入なので内容には入れてないです。手続き的な文章なので次回から読んで頂いても大丈夫です。
では以下本文。



【第一回 serial experiments lainに見る複合性―serial experiments lainに関する一連の実験的批評 導入編】


serial experiments lainを批評しようとするとき、どういった視点から問題提起しようか悩む。
この作品は、もちろんフィクションであるし、アニメ作品の性質上、小説作品のように直接的な「作者」を厳密に指名することは難しい(シナリオの書き手という意味では脚本の小中千昭氏がこの「物語の作者」ともいえるが、多くの映像作品がそうであるように、物語内容の決定には中村隆太郎監督をはじめ、複数の人物の考えや意図が反映されている他、例えばテレビ番組であるという作品外の枠も影響していることが推察され、この「作品の作者」を明確に特定するには別個そのための論考が必要であると考える)。

作者の問題として批評しないとなれば、物語内容(テーマ)についての批評、物語形式(フォーム)についての批評、あるいは現実の社会やアニメ史といったメタ視点の批評ということになろう。
しかし、この作品は、そうした「正しい」姿勢で取り組んで深部に到達出来るほど、シンプルなものではないように思う。
あらゆる意味において決して分かりやすい作品ではないことは、一度視聴したことのある人には説明不要だろうし、20年前の作品を今になって論考するにあたり、創意工夫無く取り組むというのは、ファンとして批評者として居心地が悪い。
そこで、ここでは三つの選択肢を同時に試したい。

つまり、テーマ、フォーム、メタ、というレベルの異なる視点の複合によってこの作品の批評を構築しようという考えだ。
複数の視点を設定する意図は、「複合性」が、この作品に通底するテーゼの一つであるという私的見解と、複数視点の考察が交差する一点において作品の立体的な批評を構築しようという、まさに一連の実験(serial experiments)的試みでこの作品を紐解きたいという遊び心に依るものである。

具体的な手順としては、テーマ、フォーム、メタという三つの視点の批評をそれぞれ構築し、導き出された批評内容をぶつけることで交差の中心に見えるテーゼを考察するという方法を取る。
本来であれば、同時並行で論を構築していったり、異なる視点から顕在化する仮設を、ディスカッション的にぶつけたりしながら演繹的に結論の構築を目指したいところであるが、今回の批評を、複合性による「破綻」ではなく「止揚」に導きながら書ききる自信をどうしても持てなかった。
本論考は、学術論文的なメソッドを下敷きにして行うが、何より「読み物として面白いファンの試み」として書き上げたいという考えから取り組むものである。
その為、まずは完結することを目指すということと、学術的な精密さに欠ける方法を多く採用するということについて、了承されたい。

さて、実作業に入るにあたり、まずは本論考の完結までの予定を記しておく。
本論考では、先に述べた通り、①テーマ、②フォーム、③メタ、という三つの視点から批評を行い、最後にそれらを複合することでテーゼを導き出す。つまり、大きく分けて四部構成で展開してゆく考えである。
また、実験的な試みの一つとして、上記のような複合的な批評構築の他、執筆途中の内容を適宜掲示してゆくという公開方法を取りたい。
これは、2018年5月よりserial experiments lain 20th anniversaryに寄せて行われている同時視聴会と、小中千昭氏が”welcome back to wired”という表題のもと連投形式で公開されているブログを意識してのことだ。

作品の一次文献ともいえる小中千昭氏のコメントが日々更新されている事件的展開はもちろんのこと、lain20thのハッシュタグと共にTwitterのタイムラインにlainファンのコメントが大量に流れているという状況は、通常の作品批評ではあり得ないことである。
この作品の公開からは、反省的な批評を行うには十分な時間が経過しているものと思うが、20年が経過した今、リアルタイムな話題として遡上にのぼるというのは、SNSやコンテンツ配信サービスといった時代の変化が為せる状況といえよう。ともすれば、今から取り組まんとする批評に際してこの「リアルタイム性」を逃す手は無い。

今後、一回1500字前後を目安に更新を重ね、全五回ほどでの完結を想定して更新してゆく。
それでも、この作品についての批評としてはとても短すぎる文量だろう。
しかし、すでに述べたように、完結させたいという意図のもと、不足な部分は延長したり機を改めたりするとして、まずはこの盛り上がりに参加して、話題の肥やしにすることを目指したい。

泉水沙耶の「灰色の日常」part2

2014.08.05 21:40|連載記事
『トランスフォーマー ロストエイジ』が公開されますね。泉水はこのシリーズが大好きでありまして、人気キャラクターやレギュラーキャラの新デザインが出る今作も凄く楽しみにしています。

TRANSFOMERS AGE OF EXTINCTION
TF1.jpg


こういう「悪」に対して「正義」が鉄槌を下すタイプのお話は好きです。その逆で「悪」や「正義」の軸がブレる作品も好きなのですが、基本的に熱いのが好きというか、正悪二元論的なものに対する反照は認めつつ、それでも「正義」はあると信じている人なので(だからジョジョが大好きなんですが)、ヤッパリ正義の鉄槌は気持ちが良いです。

何故こんなにスカッとするかというと、主に二つの答えがあると思います。

一つは痛快だから。悪い奴がやっつけられるのを見て、ホーレ、正義は勝つ!という勝どきを上げる気持ちと言いますか。裏表の無い勧善懲悪は気分が良いというのはある程度同意して頂けるのではないでしょうか。うーん、そうでもないかな? 「正義」サイドに魅力を感じられないと気分良くないかもしれませんね。カッコ良い「正義」がカッコ良く「悪」を倒す物語と言ったらどうでしょう。あんまり説明過多にすると胡散臭くなってしまいますが。いずれにせよ、深い意味などなく、ただナイーブに物語から受ける快感に身を任せるという楽しみ方が出来るからです。単純に、カッコ良いからとも言えます。

もう一つは頭が整理されるから。考えにノイズが入らないからとも言っても良いです。日常で「悪」と「正義」がハッキリ分かれて分かりやすく対立することなんてほとんど無いじゃないですか。ほとんど全ての出来事にどこかグレーで誰が悪いのかよく分からない部分が少なからずあると思います。物語ではそこにガイドラインが引かれていて、「こっちが悪」、「こっちが正義」と整理整頓してくれる。よくよく考えて「……どっちが正しいの!?」となってしまうのが常な日々とは違って、「正義」を全力で主張出来る。グレーゾーンというノイズが無いのです。「コイツ悪い奴だな」と思った方がやっぱり悪くて、「正義」によって倒される。非常に分かりやすくてゴチャゴチャしていた頭がスッキリします。

こういう楽しみ方が出来るっていうことは、裏を返せば普段そういった楽しみ(快感)が抑圧されているからだと思います。だからってアドレナリン全開で「正義! 正義!」とエールを叫びながら力を振るったらそれはただの暴力ですけど。

つまり何が言いたいかと言うと、日常は黒でも白でもなく、灰色だということです。もちろん、人生には辛いことも楽しいこともあります。でもその背景には辛くも楽しくもないただの日常が広がっていて、「悪」だか「正義」だか分からない散漫とした価値観がダラっと広がっているのです。

好きな方はお分かりかと思いますが、泉水は『イージーライダー』や『気狂いピエロ』好きです。

と言いつつ、ハリウッド全開な『トランスフォーマー』大好きですし(でもトランスフォーマーって元は日本原産なんですよね)、これもグレーゾーンです。

明日も灰色な日常に色を見出し生きていきましょう。

最終回みたいなことを言いましたが、まだまだ書きたいことがあるのでまだまだ続きます。

それではまた!

泉水沙耶の「灰色の日常」part1

2014.07.30 16:46|連載記事
今回は連載記事のpart1を書いてみようと思います。具体的に何をしようとしているのかは後々語ります。今回は企画の予告というか触りの部分です。

まず、最近レビューやレポばかり書いていて何のサイトだか分からなくなりそうですが、念のため確認しておきますと、当サイトは同人誌サークル「saya works」のブログです!

ついては活動報告がそのメインコンテンツとなるべきなのだとは思うのですが、自分がアーティストやクリエイターの方を発掘するときは、その作品はもちろんのこと、その人の普段の思考や趣向を見て自分の琴線に触れそうかどうかを判断しているので、泉水の作品を目にして下さった方にも「こんな人間が書いておりますよー」とPRしたいし、何かのキッカケでこのブログを覗いて下さった方にも「他にもこんなことやってますよー」ということを知って頂きたいと思い、試行錯誤している次第です。
私小説を好まない泉水としては、あまり自分語りをしたくはないのですが、「作品だけ見て惚れてくれたらええ」と言えるほどストイックでもないので出来ることはやっておきたいと思います。あと気ままに書くのが楽しいというのもありますかなり。レビューを書くとクリエイターの方からリツイートや感想を頂けることもありますしね。

さて、いつもレビューやレポばかりなのに、何故急に新しい趣旨の記事を書こうかと思ったかと言いますと、Twitterで相互フォローして頂いているとあるライターさんとのやりとりがキッカケで思い立ちました。少し具体的に言うと、泉水がずっと前々から持っていたある感覚が、もしかしたら結構世代間で共有されているものなのかもしれないと思ったのです。その感覚が記事タイトルにも挙げた「灰色の日常」です。
この感覚に関して、思ったことを少しずつアウトプットしていくことは「saya works」の作品の趣旨を端的に表すものであるし、泉水自身の頭の整理にもなると考えたので、このタイトルで連載記事を書くことにしました。

「灰色の日常」。part1の冒頭からいきなり概念的な単語を出しましたが、無責任にこういうことが出来るのが論文と違って良いですね。でもちゃんと説明しますよ。「灰色の日常」とは端的に言うと今の若い人が何となく共有しているかもしれない日常的な感覚です。その感覚で以てものを見ているシチュエーションが少なからず世の中に点在しているのではないかと疑われる概念です。黒でも白でも薔薇色でも百合色でもなく灰色です。
連載を重ねる中でこの「灰色の日常」について少しずつ明らかにしていきたいと思います。

灰色と言えば泉水は阿部共実さんの『空が灰色だから』という漫画が大好きなのですが、巷ではトラウマ製造漫画として有名らしいですね。分かります。分かりますが、色んな気持ちになれてめちゃくちゃ刺激的なのでオススメです。

『空が灰色だから』
haiiro1.jpg

この漫画の中にも「灰色の日常」が潜んでいると思います。それはふとしたときに感じるモヤモヤ感、そして気付いてしまうと途方にくれてしまうような大きいものです。「ツマラナイけどサイアクでもない日常」とでも言えましょうか。そしてその日常には、真綿で首を絞められるような緩やかな苦しみと、いつまでもぬるま湯で飼っていてくれるような不気味な優しさが隠れています。受験や就活といったドラマチックな激戦を超えた後の開放感の更に後で覚える倦怠感に似ているかもしれません。

そんな得体が知れないけれど身近な感覚について、これから思い立ったときに書いていきたいと思います。
とりあえず、「こういうことを思いつきました」という触りのご紹介でした。何だかサブカルっぽい記事なのでサブカルっぽいノイズ音楽を聴きながら書いていたら瞑想状態の門が見えてきて危なそうなので、この辺で一旦おしまいにしたいと思います。

それではまた次回泉水がモヤモヤしたときに続きを書きます。それでは!
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プロフィール

いずみさや

Author:いずみさや
東京在住
漫画原作・小説等を制作
お問い合わせはlied.von.sayaあっとgmail.comまで
twitter:@saya_works
Author画像は自画像ではなくサークルのイメージキャラクターです

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